http://rob-art.tumblr.com/page/63引用

ここに部屋が、自然には開かれているが他の人間たちには閉ざされた閉空間があり、そこで、夜を単位に数えられはするがそれぞれの夜には終りがないようなそんな無限定なある期間、二人の存在者が、彼らの完璧な結合であるだろうものの真理にほかならない失敗を、あるいはつねに成就しないことによって成就するこの結合の嘘を生きる(ある種のやり方で言祝ぐ)ためにのみ、ひとつに結ばれようと試みる。こんな有様にもかかわらず、彼らは何か共同体のようなものと形づくっているといえるのだろうか。いや、むしろそのためにこそ彼らは共同体を形成しているのである。彼らは互いに身を接してその傍らにおり、この近接があらゆる種類の空虚な親密さを経由して彼らを融合に似たあるいは合一に似た」睦み合いの喜劇を演じてしまうことから保護している。一人〔男〕によって組織され他の一人〔女〕によって同意された牢獄の共同体、そこで賭けられているものはほかでもない愛することの試みである——しかも何のためでもなく、あえていえば何もののためでもないその無のためであり、彼らの知らぬ間に彼らを活気づけ彼らをひたすら空しく触れ合うというその行為にさらすだけのこの無以外に、ついに目的をもたない試みなのである。歓喜もなく憎悪もなく、あるのはただ孤独な享楽と孤独な涙、仮借ない超自我の圧力、そしてついにはひとつの至高性、あたりを徘徊し、喚起されるにまかせはするが分かち合われることはない死の至高性、人がそれを死ぬのではない死、機能もなく効果もなく働くことのない死、おのれの呈する嘲弄の中に「言い表すことのできない生、おまえが合体することを受け容れるとどのつまりは唯一の生」(ルネ・シャール)の魅力を秘めた死。黄昏から夜明けの薄明にいたる時間のあいだ、二人の人間が、ほかにいかなる存在理由ももたず、ただ互いにおのれをことごとくかけることなく絶対的にさらし合う、それも彼らの目にではなく私たちの目に彼らの共通の孤独を出頭させるために互いをさらし合うこの空間の中に、そうだ、どうして求めずにいることができようか、見出さずにいられようか、「否定的共同体、共同体をもたない人びとの共同体」を。モーリス・ブランショ『明かしえぬ共同体』

っっk

貴方は自分が発明したかの様に諺を用いる 私もその傲慢さを知っているけれど指摘はしない 同時に貴方はかれこれ三年程落胆の中に居続けている そうした部位こそ欠点と云うより寧ろ魅力と云うものだ その内貴方に逢うかも知れない、水曜日か否か… 兎に角必ずや会える氣がしている、木曜日かもしくは。…

貴方になってしまいたい 葉が雨風のなか舞うかの如く この「ロマンス」はすこぶる芳醇でありながら、「現実的」なのである 流行歌が物質的なまやかしなどにより忘れ去られる如く

貴方によって構成されたく存じます

貴方は誰に対しても敬意を持たない喋り方をする 私はまるで街娼みたいに唄を口ずさむそこで貴方は打ちのめさん勢いでひとの配慮を食べ尽くす すると天にも昇る気持ちになると云うものだ その内ゆっくり接吻するかもしれない、素早くか否か… 兎に角くちづけてしまう氣がしている、甘美にかもしくは…

貴方になってしまいたい 震動を伴う孤独な日々には懲り懲り この「ロマンス」は或る過ちであり、且つ「超現実主義的」なのである 大自然の様な著しい愚鈍さに魅せられているのは明白

貴方に吸収して戴けたら本望です】

東京事変 「教育」 『現実を嗤う』 (via mariekr430)

http://ryohei1124.tumblr.com/ よりコピペ

現代大学生論(異論大歓迎)

筑波大学に入学したものの半年で退学しハンガリーの国立大学へ飛び、日々医学を学んでいる友人がいる。 こういう人がいるという事実を見てると、改めて僕はぐうたらな学生であるなあと思うと同時に、学生とは何ぞやという命題が浮かんできた。 ので、まとめてみる。

最近私は学生の価値が何処にあるのかわからない。

他者からの評価はあくまで「一面」である。 家族からは怠惰なクソ兄貴だと卑下される私も、外に出てみるとオモシロ学生と良く評価されたりする。 評価者によって異なる評価をされるというのはつまり、他者には個人の全容を把握することはできないということだ。 そういう意味では、自身の全容を把握しうるのはやはり自分しかいないのだろう。 (他者の評価を周囲に振りかざすのは、また別の問題。)

例えば、対外的な学生というのは、評価をもらう機会に恵まれている。そうした学生を評価するために社会の評価基準も多様化し複雑化している(つまり不透明で不明瞭)。

しかし、しばし考えていただきたい。または胸に手を当てて我が身を省みて頂きたい。(ちなみに私は今胸に手を当てている。)

大学生として一番重きを置くべき活動とは如何なるものであろうか。

私は、「勉学」を推したい。学生活動ではなく。

サークル、学生団体、学生運動、体育会、その他諸々どの選択も尊重はしている。また尊敬できる人を多く知っている。 活動に於いて尊敬できる人ほど、その活動に深く関わっている人が多い。

そこで私は彼らに次の問いを投げかけたい。 「勉学よりもその選択に比重を割いてるのは何故か?」と。 この問いに対して「学問は嫌い。面倒。だるい。」などと答えるなら、私は彼らを否定する。 学生はなぜ学生なのか。 それは勉学をするためなのだ。 それを放棄する学生を私は嫌う。 それは私の思う学生の在り方とは違う。

そうした学生が増えているからこそ、就活に於いて企業は明確な評価基準を提示できない。多様化した学生の活動を尊重しなければならないからだ。

私は、「就活に正解がない」と言われる由縁はその対象が「人間」であり評価するのが「人間」だという所にあると考える。 人間という非合理的な行動を繰り返す動物を評価する基準を、人間に依るというのはカオスである。 (そういう意味では、恐らく日本に於いて大学受験の一般入試制度は生涯で唯一「得点」のみで人間を評価する機会であろう。)

従来求められてきた大学生の本来の在り方を(つまり「学問する大学生」を)踏襲する大学生が少ないからこそ、それを評価するGPA値はただの値でしかなくなり、むしろ多様化した選択を評価せざるを得ない社会になっている。 また何より厄介なのは、本来の「大学生」を選択した学生に対する評価が低くなっていることだ。 あたかもそれが陳腐であるかのように扱われるが、私はそうは思わない。

個人の選択を私は尊重するが、その選択理由や学問への姿勢を私は評価する。 その評価は、友人(だと僕が思っている人)にも容赦なく与える。だがそれは友人を否定することではない。なぜならそれはその友人の「一面」でしかないからである。

これを読んで憤慨するであろう人はつまり「学問してない大学生」であろう。

※補足として付け加えるなら、起業するような学生は別である。彼らが学生でいるのは大概、学問を選択しているからであるし、それはセルフブランディングの手法の一つである。 ビジネスセンス溢れる大学生は素直に尊敬する。

 

オモシロイ書評を書くひけつ

http://www.wakatta-blog.com/7_2.html

わかりやすい、物理宇宙以外のもを観るときの姿勢

社会の中での様々な問題を具体的に解決するには社会学が対象とする「社会」の概念は必要ないが、社会の全体像をつかんで、社会の法則性を認識したいと思ったら、抽象的すぎる「社会」概念が必要不可欠なものになるだろう。

論理学では、論理空間という抽象的すぎる対象を設定する。これは、論理の持つ完全性や無矛盾性という、その全体を貫く性質を思考するために設定される。そこでは、具体性が捨象されて、高度に抽象化された概念が駆使される。

たとえば、命題の真理性というようなものも、日常言語の範囲での説明をすれば、それはその命題が「正しい」と判断されたときに「真」になるというような説明が出来る。しかし、命題が「正しい」かどうかは、具体的な現実と対比させて判断しなければならないという具体性がいつまでもつきまとい、これは決して徹底した抽象化へは結びつかない。日常言語の範囲ではわかりやすい「正しい」という判断が、抽象化の過程では全くかけ離れたもの(「正しい」か「正しくない」かを全く考えない、それを捨象するという思考)になってくるので、この抽象性を理解することはたいへん難しくなる。

論理空間における「真」ということは、その要素として考えられた命題の集合に、1(真)か0(偽)の数値を対応させるという関数として抽象化される。そこでは、具体的な検討の結果として「正しい」か「正しくない」かということは全く考えの外に置かれる。ここでは、どうしてそれが「正しい」(真)ということが言えるのですか、というような問いを発してはいけないことになる。それは、関数として確定していることを前提としている。この抽象性は、論理学になれていない人にとっては引っかかりがあるのではないかと思う。

もっと単純な抽象化では、計算における数字の抽象化がある。羽仁進さんは、足し算を考えるときに、その場面の具体性が気になって答えがわからなくなったという子供の頃の経験をどこかに書いていた。

「1+1=2」という単純な計算においても、ここに具体的な属性を持ち込むと、羽仁進さんが、これを馬の例で考えたように、真理として成立しなくなってしまう。馬というのは、たいへん気質がナイーブな動物だそうで、気が合わない相手だと近くにも寄らないという。だから、1頭の馬がいるところに、もう1頭を連れてくると、下手をすると2頭ともいなくなってしまうという。そうするとこの計算は、具体的に思考すると「1+1=0」となってしまう。

これは数学的には間違いだが、それは数学的な抽象化された対象に対する思考としては間違っているというだけで、羽仁さんの具体的な思考に関していえば、論理的には完全に正しいと言えるだろう。

数学抽象化も、計算という全体像を把握するために必要な抽象化ではないかと思う。この全体像を把握する目的には、絶対的に抽象化が必要だが、その目的を持たなければ、抽象化は必要ないとも言える。文学や芸術の創作の世界においては、創作が目的なら、抽象化は全く必要ないだろう。具体に即して思考を展開すればいいと思う。だが、芸術を芸術として「芸術論」を展開したいと思ったら、芸術の全体像をつかむ目的をたてなければならない。そのときは抽象化が絶対的に必要になるだろう。

抽象的すぎる「社会」概念がつかめるかどうかは、社会の全体像をつかみたいという、今ある自分の回りの出来事を超えて、その法則性を認識したいという

デザインとは、「伝統や歴史を体内に蓄積し、相手に配慮を持って対応する時に浮かぶ具現化するためのモノ」だと考えています。